「今も…時々怖くなるんだ」

男に触られるのが――。
別れ際に小さく吐き出されたその言葉。
俯く彼女の表情を窺い知ることはできなかったけれど、きつく握られた掌は確かに震えていた。

侑妃ちゃんは今も囚われてる。あの頃の記憶に。
「昔に比べると大分マシにはなってるんだよ」と笑っていたけれど、ねえ侑妃ちゃん、気がついていた?
貴方の笑顔、とても苦しそうだった。



*



一ノ宮邸からの帰り道。
家まで送ると言う一ノ宮さんと國村くんの好意を断って私と柚夜は帰路に着いた。
時計の針はもう5時を回っているとはいえ今は夏真っ盛り、日差しは――昼間に比べると幾分か和らいでいるのだろうが――まだかなり強くあちらこちらから蝉の鳴き声が響いている。
一ノ宮邸を出てからずうっと黙ったままでいる柚夜と同じ黒い日傘を、クルクルと回しながら私はつい何十分か前に別れた大切な彼女に思いを馳せた。

「ずっと黙っててごめんな」

國村くんがものすごく輝いた笑顔の一ノ宮さんに連れていかれて、部屋には私と柚夜、そして侑妃ちゃんの三人だけになった時だった。
侑妃ちゃんがいきなり頭を下げたのは。戸惑いを隠せず、私と柚夜は顔を見合わせた。

侑妃ちゃんが私たちにずっと何かを隠していることには気がついていた。
3年も(柚夜は4年だけど)一緒にいるんだもん。気がつかない方がおかしいと思うの。
というよりも、侑妃ちゃんのことが好きだから…気がついてしまうんだ。

いつもと同じように笑っているのに、ときどき傷みを耐えるように、まるで泣くのをこらえる様な表情(かお)をしている侑妃ちゃんに。
雨が降るといつも一人ふらりといなくなってしまう侑妃ちゃんに。

気にならなかった、なんて嘘はつけない。ずっと、すごく気になってた。侑妃ちゃんはいったい何を内緒にしているんだろうって。
侑妃ちゃんがいなくなると同じように姿を消す國村くんはきっと侑妃ちゃんの秘密を知っていたんだろうね。
だって、雨の日、とても辛そうな侑妃ちゃんの傍で珍しく沈黙を保っていた國村君を柚夜と一緒に見てしまったから。

そのとき、思ったの。
ああ、踏み込めない、って。無闇に踏み込んでしまえば侑妃ちゃんは離れていってしまう、って。

侑妃ちゃんと國村君がいる教室の外で、どちらからともなくお互いの手を握ったとき。
柚夜が私と同じことを感じていたことに気がついた。

私たちは二人でひとつ。言葉にしなくても思いが伝わってくる。

柚夜もそのことに気がついたみたいで、お互いの情けない顔を見合わせて。

「さびしいね…」

そうこぼしたのは、私と柚夜のどちらだっただろうか。


私にはできないとわかった。その現実を思い知らされた。あの雨の日の場面を見るまでは、もしかすると侑妃ちゃんを助けてあげられるかもなんて驕ったことを考えていたけれど、私じゃダメなんだと突き付けられてしまったから。
だからこそ、祈るしかなかった。この広い世界にいる、侑妃ちゃんを唯一助けてあげられる人へ届くように。
どうかどうか、ひとりで泣いている――ううん、きっと一人でも泣くことができない侑妃ちゃんを、早く助けてください、と。

私たちの手じゃ侑妃ちゃんを救い上げることができないの。


「――ね、華夜?」

ずっと黙ったままだった柚夜が漸く口を開いた。日傘を回すのを止めて隣を歩く柚夜に顔を向ける。
「なあに?」と軽い口調で返したけれど、本当は柚夜が何を考えていたのか何となくわかっていた。
だって、きっと同じことを考えていたはずだから。

「……侑妃、泣いてたね」
「…うん」

――ずっと、だまっていてごめん。…受け入れてくれて、ありがとう‥っ。

あの時。ごめん、ありがとうと侑妃ちゃんが頭を下げたあの時。
侑妃ちゃんの頬に涙が伝っていたのを見た。

侑妃ちゃんが泣いているのを見るのは、今日が初めてだった。

「結局、私たちでは侑妃の氷を溶かせなかったんだね」
「少なくとも3年も一緒だった私たちができなかったこと、一ノ宮さんは数日でやっちゃったんだね」
「……なんだか、それはとても、」

「悔しい!」

私の言葉に柚夜が同意するように頷いた。その眼はどことなく据わっているように見える。
かくいう私も柚夜と同じように不服そうな顔をしていると思うけれど。

「なーんであんなぽっと出のオトコに侑妃ちゃんを渡さなきゃいけないの〜っ!悔しいぃ」
「確かに。わかってはいるけど、こんなに悔しいことってないわ…!」

「「一ノ宮燎、絶対に許すまじ」」

そう、一ノ宮さん。今に見ているといいわ。
私たちはあなたが侑妃ちゃんを救ってくれたことをたしかに感謝してはいるけれど。

侑妃ちゃんはそう簡単にあなたに渡してあげないんだから!



双子の思いが通じたのかどうかは定かではないが、丁度同時刻に書斎で仕事を片付けていた燎はぞわりと背筋に走るものを感じたとか。





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