あれはいつのころだったろうか。


当時大事にしていたぬいぐるみを、妹に切り裂かれた。

切欠は本当にくだらないこと。
たしかおもちゃが私と妹のどちらのものなのか、というのが最初だったと思う。

大喧嘩の末、結局そのおもちゃは私のものになった。
それに癇癪を起した妹がぬいぐるみを滅茶苦茶に切り裂いてしまったのだ。


泣いて、わめいて。
また妹と大喧嘩になって。
母親に怒られた。

でもその間中ぬいぐるみだけはずっと抱きしめていた。なのに。


翌朝気がついたら、なくなっていた。


「ママぁっ…うーちゃん‥いなくなっちゃった…ぅえっぐ」


泣きながら母親に告げたら、彼女は眉を下げて教えてくれた。


「うーちゃんね、元に戻らなかったの。だからみっちゃんともう遊べないって、遠いところに行っちゃったの」
「ぅ…わああぁぁああん‥っ」
「みっちゃん、ごめんね。新しいの買ってあげるから、もう泣かないで」
「やだやだ!うーちゃんがいいの…っ。うーちゃぁん…!」



慰める母親の言葉もその時の私には効果はなくて。
ただ私は「うーちゃん」と泣き続けた。


それからずっと経って、私はうーちゃんが捨てられてたんだと理解した。






「ん…ゆ、め?」


カーテンの隙間から外の光が差し込んでいる。
ぼんやりとする頭をなんとか覚醒させながらベッドから起き上がる。
瞬間ひやり、と刺すような冷たさが身体を包み込んだ。


「寒っ」


再び布団に潜り込みたいという欲をなんとか抑え込んで櫁夏(みつか)はなるべく素早く制服に着替える。
制服のリボンを結び終えたとき一階から櫁夏を呼ぶ声が響いてきた。


「ミツー!」
「はーい!」


櫁夏は机の上に置かれた教科書やノートを鞄に詰め込むと慌ただしく部屋から出て行った。





***





何故あんな昔のことを今更思い出したのだろうかと考えてみて、やはり最近知り合ったあの人のせいだろうかと思う。
2週間前の桜が舞い散る頃、近所の公園で出会い、なぜかそのまま交流が続いているあの人。



「桜がきれいですね」



「みっちゃん」


ほら、今日も帰り道の公園で手を振って待っている。


「サギさん」
「みっちゃん、お帰り」


私が名前を呼ぶと彼はとてもきれいに笑う。
若いのになぜか白い髪の毛が少しだけ傾き始めた太陽に照らされて輝いていた。
サギさん(決して“詐欺”のサギではない)に近づいて行って、私は彼を見上げちょっと呆れたように首をかしげた。


(本当は彼と会えることが嬉しいという想いを奥底にしまって)


「サギさん、今日も待ってたの?」


言いなれたその問い。サギさんにとっては聞きなれた質問に彼は微かに苦笑を浮かべて頷く。
そしてきっとお馴染みの言葉が返ってくるのだ。


「だってみっちゃんと話したいから」


予想通り。そしていつも通りの返答。
私を喜ばせる言葉だとわかっていて、この人はこんな事を言うのだろうか。
――ううん。それはない。

だってこの人の眼は本当にまっすぐだから。

だから、私もお馴染みの台詞を紡ごう。


「じゃあ、座って話そう」


ベンチを指さしてサギさんを見つめれば、彼は目を細めて笑った。


「うん」





***





高校のことや友達のこと、勉強のことや進路のことなど様々なことをサギさんに話す。
彼は私の話を聞くだけで自分のことは何も話さないけれど、いつも楽しそうに相槌を打ってくれる。
だから私もそれが嬉しくてサギさんの前だといつもよりも饒舌になってしまうのだ。

一通り話し終えたところで私はあることを思い出した。


「あ、そういえば」
「?どうしたの?」
「今日ね、昔の夢を見たんだ」
「へえ。どんな?」


既に太陽は沈み始めているけれど、今日は両親も妹も帰りが遅い事が解っていたからそのまま話し始めた。


「小さい頃に大事にしていたぬいぐるみを妹に滅茶苦茶にされた夢」
「――っ…そ、れは、どんなぬいぐるみだったの?」


一瞬だけサギさんが息を呑んだように見えた。
けれど私がサギさんの方に顔を向けた時には彼はいつもの笑顔を浮かべていた。
何か腑に落ちない気がしながらも私は続ける。


「真っ白いウサギのぬいぐるみ。うーちゃん、ってそう呼んでた」


大事にしていた。
片時も離すことはなかった。

真っ白いウサギのうーちゃんは、きっと私の初めての友達だった。

言葉を話すことも、動くこともないけれど。
それでも。


「大事な友達だったから、滅茶苦茶に切り裂かれた時“私馬鹿だなぁ”って思ったんだよ」


あんなおもちゃの取り合いなんかしなければ妹が癇癪を起すことも、うーちゃんが切り裂かれることも、捨てられることもなかったのに。

…あれ?
なんでこんな話してるんだっけ。


なんで。


なんで涙がとまらないんだろう――。


「ごめんね、って言いたかったなぁ…」


捨てられたうーちゃん。
ゴミの中に紛れて、きっと焼かれてしまったうーちゃん。

切り裂かれたときも焼かれてしまったときも、痛くて苦しかったに違いない。


「ホント、ごめんね…」

「――みっちゃんが、謝ることじゃないよ」
「え?」


隣を見上げれば温かい手が降ってきた。
それは私の頭を優しく撫でて、同時にサギさんの優しい声も聞こえてくる。


「みっちゃんのことを恨んでいないし、謝ってほしくないよ。それにみっちゃんと一緒にいられてとても楽しかった」
「…サギ、さん?」
「みっちゃん。僕、本当はね――」


切なそうな声だった。
頭を撫でてくれていた手もいつの間にかなくなっていて、見上げた私の視線はサギさんとは絡まない。
絡むことのない視線は私の心に不安をひとつ落としていった。


「さ、みっちゃん。もう帰らないと」
「え…?サギさ」
「また明日、ここで待ってるから。その時に僕のこと話すよ、みっちゃんに」


言葉すら遮られて、きっと私の顔を情けないものにしていたと思う。
けれどサギさんの表情もいつもとは少し違っていた。

サギさんは笑っていた。
でも泣きそうだった。











帰り道、街灯が照らす道を一人歩きながらサギさんのことを想う。

夢の話をした後からサギさんはどこか辛そうな表情を浮かべていたかもしれない。
どうして、なんだろう?
それも明日話してくれるんだろうか?


明日、サギさんはあの場所にいるんだろうか?


不安は少しずつ大きくなっていく。


「…っまだサギさんいるかな」


公園に戻って、サギさんに言いたい。
もしサギさんが明日来なくても、私は待ってるからって。
今度は私が待つからって。

そう思って公園へ引き返そうと振り向いたそのとき、
私はすぐそばに男が立っていたことに気がついた。


「(え、気がつかなかった)」


黒いニット帽、黒い服と全身を黒で統一している。
驚きと多少の恐怖が私の体を硬直させて動かさない。
瞬間男と私の視線が絡む。



――ニタァ



口元を歪めて嗤った。


「ひっ…!」


きらりとナイフのようなものが光った。
狂気のような笑みを浮かべて男が走ってくる。
それでも私の体は動かなかった。


「(っ動け!動け動け動け!逃げなきゃ…っ)」


馬鹿みたいに男とナイフを見つめることしかできなかった。


「(動いて…っ!)」





「みっちゃん――ッ!!!!」





男のナイフが振りかざされた時、私と男の間に聞きなれた声とともに何かが入り込んできた。





「ぇっぁ、ああ…っサギさ、――!?」
「みっちゃん…、みっちゃん大丈夫?」


男は小さく舌打ちをすると、サギさんの腹に刺さったナイフをそのままに走り去っていく。
けれど私は悲鳴すらあげることができなくて、ただサギさんの腹を見つめていた。


「みっちゃん…、櫁夏、しっかりして」
「っ…!サ、ギさ…!サギさん…っ」
「僕は大丈夫だよ。それよりも、みっちゃんは怪我はない?」
「ないよっ…、サギさんが守ってくれたから――ッ」


やだやだやだ。
サギさん、血が止まらないよ。

どうすればいいの?

どうしたらサギさんを助けられるの?


「みっちゃん、泣かないで」
「ひぐっ‥サギさぁん…やだよ‥っぅぇ」


逝かないで、どこにも。
ここにいて。

サギさんは泣きじゃくる私を見てとても困ったように笑った。


「みっちゃん、きいて」
「やだっ!誰か‥誰かきてッ!」
「お願いだから、みっちゃん。僕の話を聞いて」
「ふ、ぅえ…サギさん、やだよ…話なら明日聞くから、だから、やだぁ…っ」

「櫁夏、お願いだよ」


なんでこういう時に名前を呼ぶの。
なんでこんな時まで笑うの。


「僕ね、みっちゃん。みっちゃんを守るために、みっちゃんのとこにやってきたんだ」
「守るって、なんで…」

「みっちゃん、僕はね。君と一緒にいられて楽しかったよ。また君に会えてとても嬉しかったよ。
捨てられたときは悲しかったけど、みっちゃんのこと恨んでなんかないよ」

「っ…!

うーちゃん、なの?」


信じられない。
だって、うーちゃんはウサギのぬいぐるみで、ぬいぐるみは動かないし話さないし、それに人間にはなれないんだよ。

サギさんはそんな私の疑問を見透かしたように言葉を紡いだ。




「捨てられたとき、僕はずっと泣いてた。

“みっちゃん。みっちゃん、どこ?”ってずっと。

そしたら、拾われたんだ。

――神様に。


神様は僕にチャンスをくださった。

みっちゃん、みっちゃんの前に僕が現れたのはみっちゃんを守るため。


みっちゃんの命はね、本当は今日までだったんだ。


だから僕は神様にお願いして、人間にしてもらった。

ただ一度人間になってしまうともう元には戻れない。

僕はそれを承知で、ここにきた。


ただみっちゃんに会いたくて、みっちゃんを守りたくて。


だからね、みっちゃん。泣かないで。

僕はみっちゃんに会えて幸せだったし、みっちゃんが死ななくて良かったと思ってる。


みっちゃん…、櫁夏、笑って。


僕は櫁夏が笑ってる顔が、一番好きだよ」


言い終えて、やっぱりサギさんは笑った。


「うーちゃん……サギさん、私もね、サギさんが好きだよ。大好き」


笑顔になってる?
涙でサギさんがかすんで見えるよ。

サギさん。

サギさん、大好きだよ。


「みっちゃん、ありがとう」


僕を忘れないでいてくれて、ありがとう。


サギさんがとてもきれいに微笑んでその瞼を閉じた瞬間、彼を柔らかな光が包み込んだ。
光がしぼんでいき再び暗い景色が戻ってきた時サギさんはもうそこにはいなかった。
代わりにそこにあったのは


「うーちゃん…」


白いウサギのぬいぐるみ。
所々綿が飛び出たうーちゃんをそっと持ち上げる。


「大丈夫ですか!?」
「櫁夏ちゃん、何があったの!?叫び声が聞こえたけど…」
「おばさん…。通り魔に、襲われて…」


近所の顔見知りのおばさんがお巡りさんを連れて走ってきてくれた。

そのあと交番に行き一通りの説明をしながらも私はサギさんのことは黙っていた。
ただ、ぬいぐるみが私を守ってくれたとは言ったけれど。
警察官の人は納得したようなしていないような微妙な顔をしていた。


わかってくれなくてもいい。

私だけが彼を憶えいればいい。




サギさん。





ありがとう。











***











「ミツ〜?でかけるの?」
「うん、公園に行ってくる」
「そう。気をつけてね」

「行ってきます」


サギさん、私ももう大学生だよ。
サギさんがいなくなってから一年が過ぎて、
サギさんと出会った桜の季節がまたやってきたんだよ。
時間の流れって早いね。




サギさん、私ね。

勝手にサギさんのこと待ってるから。

たとえサギさんが来なくても、私がサギさんのこと諦めるまで、ずっと待ってるから。


だから、また一緒にいっぱい話そう。

話したいことがいっぱいあるんだ。




「桜が、きれいだよ」


サギさん。




――みっちゃん。




風に吹かれて彼の声が聞こえたような気がした。





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