身を刺すような寒さに思わずマフラーに口元をうずめる。
もう何度目になるだろう、私は手元の携帯を開いた。
"19:48"
ディスプレイに映し出された時刻は非情にも待ち合わせの時間をとうに過ぎてしまっていることを私に突き付ける。
やっぱり来てくれない、か‥。悲しいけれど、どこかで当然だろうという思いもあった。

だって私はただの生徒で、あの人は教師だから。






目の前を流れていく人の波。カップルが多いのは当然といえば当然だろうか。
今日は12月24日。クリスマスだ。
今まさに私が立っているこの広場だってそのクリスマスを楽しむカップルたちが笑い合っている。
しかしカップルであふれるこんな場所に一人で突っ立っている私はさぞかしおかしく映るだろう。
それもこれも私が教師という立場のあの人を好きになってしまったが為なのだろうけれど。
どうしようもなく悲しくなって色とりどりのイルミネーションが輝くツリーを見上げた。



先生に出会ったのは高校2年生の春。
転任してきた教師の中に、彼がいた。
若そうではあるけれどぼさぼさの髪の毛に地味なフレームの眼鏡、そして極めつけはどこか面倒くさそうな色を映したその眼。
名前は松宮駿(まつみやすぐる)。
どうみたって格好いいというわけではなかったけれど、どういうわけか私は彼に一目惚れしてしまった。

それから1年半先生を好きだと思う気持ちは止めることができず日に日に大きくなっていくばかり。
けれど告白はできなかった。
教師という立場の彼を困らせたくなかったし、振られたらということを考えると言えるわけがなかった。

でも先生と一緒にいられるのも、もう最後だから。
もうすぐ高校を卒業する私は、最後の最後に先生との思い出が欲しくなって、言ってしまったんだ。

――望みがないと、わかっていながら。


「先生が好きなんです。一度だけでいいですから、デートしてくれませんか」


クリスマスイブ、19:00にここで待ってるとそれだけ言って逃げてしまった私。
先生の返事も待たずに。
なんて迷惑な生徒なんだろうと思う。
勝手に先生に好意を寄せた挙句、勝手にデートだとか言って待ち合わせして。

だから先生が来てくれないのは当たり前。
でも少しだけ。
もしかしたら来てくれるかもしれないって愚かな期待していたんだ。
先生にとって私は特別なのかもしれないと、莫迦みたいなことを思っていたんだ。

授業で分からないところを聞きに行っても、廊下ですれ違う時に挨拶をしても、どこか他の人よりも優しく接してくれている気がしていたから。

…それは私の勘違いだったんだろうけど。



再び携帯を開くとメールが来ていた。
友達の秋ちゃんからだった。彼女は私が先生に告白したことを知っている唯一の人だ。

メールには今からでもいいからクリスマス会に来ないかとあった。
私から何にも連絡がないことを心配してメールを送ってくれたのだろう。
純粋に彼女の思いが嬉しかった。
だけど…。


返信メールに「ありがとう」と「ごめんなさい」を打ち込む。
無事に送信されたことを確認して携帯を閉じた。
もう20:30を回っていた。
あと30分しても来なかったら、その時は帰ろう。
そう自分に言い聞かせ、俯いて寒さでかじかんでしまった手を擦る。

ふと自分の格好を見おろして人知れず苦笑した。
今着ているワンピースもブーツもこの日のために自分のお小遣いで買ったものだ。
先生のためにお洒落したのに、無駄になってしまったなあ。


先生は来ない。

‥わかってる。
でも、待っていたいんだ。




もう広場には人気も少なくなっていた。
あんなにいたカップルたちも今は数えるほど。
携帯を開く。またメールが来ていたけど今度は無視した。
時刻は21:07。ため息を吐きながら携帯を閉じて、私は立ち上がった。

帰ろう。もうあの人は来ない。

見納めにとツリーをもう一度見上げる。
キラキラ輝くイルミネーションが今は胸に痛かった。


「――ねぇ、君ひとりなの?」


その時だった。誰かに声をかけられたのは。


「え‥?」
「さっきからずっとここにいるよね?彼氏と待ち合わせ?」


たぶん格好いいの部類に入るその顔に、にんと人懐こい笑みを浮かべた男の人。
いきなり声をかけられたせいで戸惑ってしまい私は正直に答えてしまった。


「えっと、もう帰るところです‥」
「そうなんだ。実は僕も彼女にすっぽかされてさ。よかったらすっぽかされた同士一緒にご飯でも食べにいかない?」


せっかく予約したレストランが無駄になってしまうし。
その人は苦笑しながらそう言った。
確かに私も夕ご飯を食べていない上に待ち疲れてお腹が減ってはいるけれど…。


「あの、御誘いはうれしいんですけど」
「――夜紀!」


断ろうとしたとき腕を誰かにつかまれた。
痛いくらいに強い力で腕をひかれたかと思えばあっという間に大きな壁が私の目の前に広がる。

誰かなんてすぐにわかった。
だって好きな人の声を聞き違うはずがないから。


「彼女は俺の連れだから」


先生は私を自分の背中に隠しながらはっきりとそう言った。
嬉しかった。
でも、同時に悲しくもあった。
来てくれるのならもっと早くに来てほしかったと思ってしまったんだ。


「あなたがその子の彼氏?こんなに可愛い彼女を待たせるなんて彼氏として失格だよ。じゃあね、“夜紀”ちゃん」


残念そうに笑いながらその人は先生に向ってそんな言葉を放つと、私に手を振って人の流れに消えていった。
男の人が去った後先生と私の間に沈黙が下りる。
その沈黙がとても気まずくて、私の方から先生に声をかけた。


「あの、先生…?」


それなのに、怒られるなんて思ってもみなかった。


「どうして俺を待ってた?待っとけば俺が来るとでも思ってたのか?
星野、お前は一応受験生なんだからこういうことをしてる暇はないだろ。
だいたい変な男に声までかけられて、無理やり連れて行かれでもしたらどうするつもりだったんだ」


静かな声だけど、言葉の端々から先生が怒っているのが感じられる。
だけれど私は先生の言葉に何かが切れる音を聞いた。


「…確かに、私は先生を待ってました。でも先生はあの時行くとも行かないとも言ってくれなかったでしょ?
断るならあの後いくらでも断るチャンスはあったはずです。なのに先生は何も言ってくれなかった!
それに私が男の人に声をかけられたって、先生には何の関係もない…っ!」


言いきったあと先生の顔を見ることができなくて俯いた。
涙が溢れる。ともすれば嗚咽まで零れそうで唇をかんだ。


「…帰ります。手を離してください」


もう、もういい。
最初から期待なんかしなければよかった。
もっと早くに諦めて帰っていればよかった。
そうすればこんなことにならなくて済んだのに。

先生が私の手を離す。
それと同時に私は先生から一歩離れてぐっと顔をあげた。
最後にしよう。先生と話すのも、これで終わりにしよう。
先生は涙を流す私を見て何か言いたそうにしたけれど、それよりも早く私は言葉を紡いだ。


「先生、ごめんなさい。…来てくれて、ありがとうございました」


たぶんそれは笑顔と呼べるものではなかったけれど、私は精一杯の笑顔を浮かべて。


逃げだした。


「っ待て星野!」


ううん、逃げ出そうとした。
でも今回はうまくいかなかった。


「離してっ」
「またお前は、俺から逃げるのか」


ふたたび私を逃がすまいとしているのかぎゅっと腕をつかむ手に力が入れられる。
向かい合うようにして体を反転させられたので今は目の前に先生が立っているけれど、私は先生の顔を見ることすらできない。
何も言わない、顔も上げない私に呆れたのか頭上で先生がため息をついたのがわかった。
思わずビクリと肩が揺れる。

また怒られてしまうのだろうかと不安に思った私は、次の瞬間何が起きたのか理解できなかった。

目に入る景色は突然何かにさえぎられ、
微かな息遣いが耳元をくすぐり
背中に回された何かが強い力で私を拘束する。

先生に抱きしめられているのだと頭が理解するのにはとても時間がかかった。


「せ、先生…っ離してください」
「嫌だ。今離すとお前、また逃げるだろ」
「誰かに見られたらどうするんですか‥っ」


両手を先生の胸板にあててぐいっと押し返すけれど、先生はやっぱり大人の男の人で、私なんかの力ではびくともしない。
前までなら憧れていたこの状況も今の私にとっては余計に苦しくなるものでしかない。
涙が出そうでたまらなかった。


「離して、ください」


これ以上惨めな気持になりたくないのに。


「離さない」
「どうしてっ…私を苦しめて、そんなに楽しいですか?好きとも何とも思っていないくせにこんなことしないで‥っ!」


ぽろり、と一滴の涙が零れていった。
それをきっかけにまるで涙腺が決壊したかのような勢いで次から次へと涙が零れおちていく。
もはや涙を止める術すら分からなかった。ただ俯いて、嗚咽を堪えることしかできなかった。

先生の気持ちが決して自分に向かないことが悲しくて。
自分を抱きしめる先生の腕の温かさが辛くて。
先生に迷惑をかけてしまった自分がとても惨めで。

それでも私は先生のことを嫌いになんかなれないということに気がついて、もっと苦しくなった。


「星野‥」


この気持ちを諦めようと思っているのに。
どうしてそんなに優しい声で名前を呼ぶんですか。


「星野、顔をあげて」


涙が止まらない。
ぐちゃぐちゃの顔を見られたくなくて、私は首を横に振ることで先生の要求を拒んだ。
すぐそばで聞こえた先生のため息に思わず肩が揺れてしまう。
そうしてまた好きな人を困らせてしまったと惨めさに視界が霞む。
けれど今まさに流れんとしていたその涙は優しく頬を包み込んできた指が掬っていった。

そのまま顔を持ち上げられて、二人の目が合う。
いつもの面倒そうな色ではない真剣な眼差しの彼がそこにいた。
そして、


「――っ」


唇をそっと掠めていった、柔らかくて温かいもの。

キスをされた。

その事実を頭が理解した瞬間顔が熱を持ち始めるのを感じながら私は口元を押さえた。
距離をとろうとする私に気がついてか再び先生の腕が背中にまわさる。
ぎゅっと先ほどよりも強い力で抱きしめられて息苦しくて先生の名前を呼んでいた。


「せ、んせい…」
「お前が卒業するまで、黙っていようと思っていた。でも……星野、お前が俺のことを好きだと知って、俺はどうすればいいのか分からなくなった」


先生は少しだけ力を弱めてくれたけれど、相変わらず私を抱きしめたまま。
喋るたびに耳に掛かる先生の息がくすぐったい。


「今日だって、行くかどうか迷った。俺は教師で、お前はまだ生徒だ。どう考えても世間体がよくないに決まってる」
「………」


それは、私もわかっていたこと。
私は生徒で先生は教師で。
生徒が教師を好きになるなんて、そんなことは起きてはいけなかったんだ。

でも、私は先生を好きになってしまった。


「迷って、賭けをすることにした。待ち合わせ時間を過ぎても来ない俺を、お前が待っていてくれるかどうか」
「っ、それは」
「悪かった、星野。バカなことをしたと自分でも思ってる。こんな寒い中にお前を何時間もいさせた挙句、お前に声をかけた男に嫉妬して八つ当たりまでして」
「――え?」


嫉妬?
八つ当たりって…。
どういうこと、と訊ねる前に先生から体を離される。
見上げれば先生がこちらを見つめていた。


「好きだ、夜紀」


息が止まった。
……今なんて、


「転任してきてお前を初めて見たときからずっと好きだった」


先生の言葉が私の中に沁みわたっていく。


もう、諦めようと思っていた。
先生へのこの気持ちを。
でもすてられなかった。先生のことを嫌いになれるはずがなかった。

こんなにも、好きだという気持ちで溢れていたのに気がついたから。


「先生…嘘じゃ、ない…?」
「嘘じゃない。俺は夜紀が好きだ」
「ふ、ぇっ…」


止まったはずの涙がこぼれだす。
上から「泣きすぎだ」という言葉が降ってきたけれど、泣かせてるのは先生なんだよ?
でも私の口からは嗚咽が漏れるばかりでその思いが言葉になることはなかった。
代わりに、先生に腕をのばして今度は自ら彼に抱きつく。
ぎゅうっとしがみつくような格好になってしまったけれど先生も優しく抱き返してくれた。
その優しさがまた心にしみて涙が零れた。




「ごめんな、夜紀。クリスマス、台無しにして」
「…ううん、いいんです。私も勝手なことしてしまったから」


ツリーを見上げられるベンチに二人、手をつないで座る。
すぐ近くに先生を感じることができて今はただ温かさでいっぱいだった。


「先生」
「ん?」

「メリークリスマス」


あなたの隣で、こうやって笑っていられること。
それはクリスマスにおきた、奇跡。





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