「っは、はぁ…」

ヒールを履いた足がずきずきと痛い。どうしてこんな日にヒールなんか履いてしまったのだろう。
いっそのことここで脱ぎ捨ててしまおうか。焦りの中でそんな考えがよぎるけれど今はその時間すら惜しかった。
―――どうか間に合って!油断すれば涙が零れそうになるのを必死で抑えて、私は眼前の病院を見上げて祈った。



何度も通った彼の病室。その真白な扉が見えてきて私は縺れそうになる足を叱咤して廊下を駆ける。カンカンッと大きく響くヒールの音にすれ違いの看護師が嫌そうな顔をしたけれど構わなかった。
乱れた息もそのままに扉を引き開けようと手をかけた時、

「っと、すみません」
「い、いえ」

予想外にも内側から扉が開いた。突然のことに加え疲弊した体では避けることもできず案の定中から出てきた人物にぶつかってしまう。
出てきたその人を見て驚いた。けれどその人も私を見て軽く目を瞠った後、微かに悲しみや哀れみの色を瞳に浮かべた。

(えっ…)

私がその意味を問う前に彼は頭を下げて謝罪すると白衣を翻して病室を出ていってしまった。続いて病室から出てきた二人の看護師が彼の後を追いかけていく。
去っていく後姿を見つめて私の胸は嫌な予感でいっぱいになった。
私は、あの人を知っている。あの人は彼の、担当医だ。そして、あの表情は――。
そう思っていた時だった。

「ぅあぁああ――っ」

悲哀に満ちた慟哭が病室から聴こえてきて、私は息を呑んだ。

(まさか。そんな、まさか…)

開いたままの病室のドアから病室を覗く。
のろのろと視線を彷徨わせて彼のベッドの方に目を遣ると、こちらに背を向けて泣き崩れる彼の両親がいた。
息が、とまった。動くこともできなくてその場に呆然と立ち尽くす。

(うそ、でしょう…?)

ふらりと踏み出した一歩でヒールの音が病室に響いた。

「あ‥絢ちゃん…」

コツ…っと響いたヒールの音に彼の両親がドアの傍で立ちすくむ私に気がついた。
彼の母親が涙混じりの声で私の名を呼ぶ。
彼女を支えていた男性もこちらに顔を向けていた。彼の父親だ。
いつも厳しそうな表情を浮かべているその人が、目を赤くさせて涙を流していた。

二人のその様子に否が応でも起こってしまった現実を悟らざるを得なかった。
けれど。
けれど、たった何分か前に起こった事実を認めたくなかった。
嘘だと、言ってほしかった。

ふらふらとベッドに近づく。側には役目を終えた機械が静かに沈黙を保っていた。
そして、

「きよ…?」

穏やかな顔だった。彼はいつだって穏やかだったけれどそのどれにも勝るほど、穏やかな。
震える手をそっと彼の頬に添える。そこはまだ微かな熱を持っていた。
それがとても、

辛くて、

悲しくて。

「きよ、きよかず、起きてよ。目、開けて…」

背後で彼の母親が堪え切れないように泣き出すのがわかった。
私も溢れる涙を抑えることができなかった。

だって、まだこんなに温かいのに。
本当は眠っているだけなんでしょう?
私を驚かそうとしているだけなんでしょう?

「起きて、きよ‥早く目を開けてよ…ッ」



『ねぇ絢。笑ってよ』

貴方が笑えと言うのなら幾らでも笑ってあげる。

『泣かないで、絢』

貴方が泣くなと言うのなら泣かないように我慢する。

『――どうか、幸せに』

貴方が幸せになれと言うのなら幸せになれるようにがんばる。


でも、
わかってる?

それは全部貴方がいないと意味がないんだよ。


「きよっ…いやだ‥置いてかないで!一人にしないで…ッわたしの、そばにいてよぉ…」

最早足に力が入らなかった。
ガクガク震える膝では立っていられなくてそのままベッドの傍に座り込む。
その瞬間、つきりと腹部に痛みが走った。

(ぃっ…)

それは次第に痛みを増し始め、

「いた…っ!」

ずきずきと激しい痛みが襲ってくる。

「っ綾ちゃん!?」
「大丈夫か綾ちゃん!」

彼の両親の叫び声を薄れゆく意識の中で聴いたのを最後に、私は気を失った。



―――きよ、私を置いていかないで‥。





*





目を開けたら、私もきよと同じ場所にいられたらいい。
私はあなたがいないと生きていけないのだから。
あなたがいないと生きている意味さえ見つからないのに、どうして生きていられるだろう?

「ぅ‥ん」

目を開けて飛び込んできたのは彼の両親の顔だった。心配そうなその表情が今は痛い。

結局私は生きていかなければならない。彼がいなくなっても、生きなければいけない。
私の幸せを祈って逝ってしまった彼を裏切ることはできないのだから。
だけれど、それでも彼の傍にいたいと想ってしまう私は、もうすでに彼の願いを裏切ってしまっているのだろうか。

「絢ちゃん‥」

静かに泣いている私を見て彼の母親が辛そうな表情を浮かべた。
本当は私よりも彼女たちも方が辛いはずなのに。泣きたいのは本当は彼女たちの方なのに。
そう思えば思うほど涙は止まらなかった。

「あのね絢ちゃん、聴いてほしいの」
「は、い・・」

真剣な眼差しの二人に涙を拭っていた私はベッドから起き上がって頷いた。
起き上がる時、点滴がずれないように彼の父親が手伝ってくれた。
その手の優しさに彼を思い出してまた泣きそうになったけれど、ぐっと力を入れて涙を押し戻す。

「信じられないかもしれないけれど、よく聴いて」

彼女の言葉に私は無言でうなずいた。
けれど、次の瞬間頭の中は真っ白になった。

「絢ちゃんね、流産しかかってたらしいの」
「―――え?」

りゅう、ざん?

「切迫流産だったらしいんだ。でも先生の話では子供に影響はないそうだよ」

彼の父親が言葉を継いで続ける。
けれど私の耳にはそのどれも入ってこなかった。

「このまま妊娠は継続できるらしいわ。妊娠2カ月だって」

どういうことなのだろう。
流産?子供?妊娠…?

だれの、あかちゃん?

「きよの…きよの、赤ちゃん‥?」

まだ膨らみもないお腹にそっと触れる。
ここに、彼の命の流れを汲んだ新しい命がある――。

「っきよ…きよぉ……ッ」

きよ。
きよは私を置いて行ったりしていなかった。
私を一人ぼっちになんかしていなかった。

あなたはここにいたんだね、きよ。





*





おんぎゃあ おんぎゃあ 
分娩室に大きな泣き声が響き渡った。
室内にいた医師をはじめとするスタッフたちはほっとしたように微笑み合う。
今まさに出産を終えた女性もそのうちの一人。
彼女は分娩台の上で疲労交じりの笑みを浮かべていたが、看護師がその子を抱いて近寄ってきた瞬間大粒の涙を流し始めた。

「やっと会えた…」

抱いた胸の上でふにゃふにゃと言葉にもならない声を発している赤ん坊。
その向こう側に微笑む彼の姿を見た気がして、絢もこれまでの辛さを忘れて笑った。







―――きよ、私今とても幸せだよ。





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