第一章 お姫さまの誘拐事件[1]



何かが起こるのは、いつだって突然。
予告なしに、迫ってくるのだ。




事件が起こる、最初の予兆は今朝のことだった。





「失礼ですが、姫乃侑妃(ひめのゆうひ)さまでいらっしゃいますか?」


そう声をかけられたのは今日の朝。
7時45分という恐ろしい時間に目を覚まし全力で学校へと走っていたときのことだった。
何でこんな時に声をかけるんだ、と声の主に怒りを感じながら振り向こうとした。
が、その言葉が引っかかった。

どうして名前を知っている?

名前が売れるようなことはした覚えがないし、むしろ自分は目立つことが嫌いである。
では、なぜ知らない奴が自分の名を知っているのか。

…いくら考えても答えが出るはずないか。
とりあえず、否定しておこう。


「………いえ、違いま、す…」


振り向いた先に立っていたのは黒いスーツを着た背の高い男だった。
背、高すぎだろ、オイ。自分のことを棚に上げてそう思ってしまうのも仕方がないことだと思う。
176pという女子の平均身長を遥かに上回ってしまっている侑妃だが、
その男は自分よりも頭1つ分くらい身長が高く、かなり周囲の目を集めていた。


「あ、人違いでしたか…。失礼しました」
「いえ、気にしないでください」


そう言いながら少しずつ後ろに下がった。
腕につけている時計の長針は着実に12へと近づいている。
こんなところで無遅刻無欠席の皆勤賞を逃すわけにはいかないっ。


「では、自分はこれで…」


そう言うが早いか走り出そうとした侑妃を引き止めたのは


「ってそんな嘘つかないでください!」


彼女の腕を掴んだ男の手だった。


「…っ……!」


捕まれたところから震えがわきあがる。


「ぎゃー!放せ!」


女らしからぬ奇声を上げて思い切り腕を振った。
だが男の手は放れない。

というか外見からして女らしくないのでこの際奇声でも何でもあげてしまえ、と思ってしまったのが運の尽きだった。


「お願いですから、私と一緒に来てください!!」
「誰が行くか!!知らない奴にはついて行くなっていうのが世間のジョウシキだろ!」


道端で、しかも通勤時間とあらば人の通りも多い。
そんな中で大声で騒いでいれば嫌でも目立ってしまうわけで。


「お前のせいでなんか見られてるじゃねぇか!」
「あなたが私についてきてくだされば何もこんなに目立つことはなかったのです!」
「そんなの知らねぇよ!!」
「あぁぁ!あれほど燎さまに目立つ行動は避けろと言われたのに…!」
「いや、あんたがこんなところで俺を呼び止めたときからもう既に目立ってたって」
「このままでは燎さまになんと言われるか…!!」
「…聞けよ」


勝手に自分の世界に入ってしまった男は、その手が俺の腕から離れてしまっていることに気が付いていないらしい。

―――今がチャンス!!

男に気づかれぬように深呼吸をして侑妃は全力で走り出した。


「あぁっ!お待ちください!!」


男がそう叫んだときにはもう遅く。
侑妃は男から数十メートルも離れていた。







* * *







「待てと言われて待つ奴がいるわけないだろ…!」


人混みを走りながら何故先ほどの男は自分の名前を知っていたのだろうかと再び首をひねる。
先ほども思ったが、それほど有名になった覚えは少しもない。
まして目立つことが嫌いな自分は今まで目立たないように生きてきたはずである。

………。
やはり、分からない。


「ぎゃー!遅刻!!」


チラッと腕時計を見るとあと5分ほどで8時になろうとしている。
侑妃は走る速度を速めた。




そんな侑妃を黒塗りベンツの中からジッと見つめる男と女。


「やっぱり深山(みやま)じゃ無理だったか…」


ふぅとため息をついた男を見て男の隣に座っていた女はクスリと笑いをこぼした。
女の笑みに気がついてむっとした表情を男は浮かべる。


「何か言いたそうだな、加川(かがわ)」
「いいえ、滅相もございませんわ燎(りょう)さま」


加川と呼ばれた女はそう言い返したものの、我慢できないという風に肩を揺らして笑い始めた。
男は不機嫌そうに窓の外に目をやる。
その後しばらく加川の笑い声が響いていたが、笑いも収まったのだろう、いつの間にか加川の楽しそうな声に変わっていた。


「では今度は私がまいりましょう」
「は?」
「必ずや侑妃さまをお連れいたしますわ」


ニッコリと微笑んだ加川を偶然見ていた運転手は背中に冷たいものを感じたとか…。
侑妃はまだ自分の身に迫りつつある危険に気づいていなかった。





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