お姫さまの過去[3]



「あの時以来、学校に行けなくなった。誰にも会いたくなくて、人にかかわることすら怖かった」


部屋に閉じこもり出てこない侑妃を慧をはじめとする守代家の者たちはただ心配するしかなかった。
無理なことをしては侑妃を傷つけることがわかっていたからだ。
部屋から出てこない侑妃は食事さえも取ろうとせず、部屋の前に食事を置いておくが彼女は手をつけることすらしなかった。
食べない侑妃を心配して慧が侑妃を説得するが、彼女は慧の呼びかけにすら反応せず部屋に閉じこもったまま。
そんな中、ついに


「倒れちゃったんだよ、ね」


情けなさそうに苦笑いを浮かべて侑妃は言葉を続ける。3日間、眠ったままだったと後から聞いた。
原因は極度の緊張による精神疲労と栄養失調。部屋の中で倒れていた侑妃を発見したのは様子を見にきた慧の妹だった。
真っ白い病室、点滴をつながれた自分の腕。
それから、ベッドの横には普段は絶対に見ることはない無表情の慧と涙をぼろぼろ流す慧の妹。
思わず出てきた言葉は「ごめんなさい」。次の瞬間、黙ったままだった慧が侑妃の頬を叩いた。


「何やってんの、兄さん!」
「お前は黙ってて。――侑妃。俺がなぜお前を叩いたかわかる?」
「‥‥」


叩かれた頬に手を当てて呆然を慧を見つめたまま、侑妃は分からないという風に首を振った。
その青い双眸には涙がたまっている。
慧は深くため息をつくと侑妃に手を伸ばす。また叩かれるとでも思ったのだろう、侑妃の体がビクッと跳ねた。
しかし侑妃の考えとは裏腹に慧の手はそっと侑妃の頬に触れ、自分が叩いたせいで赤く腫れてしまったそこを優しく撫でながら、
慧は「叩いたりしてごめん、侑妃」と掠れた声で謝罪の言葉を口にした。
驚いてまばたきをした瞬間、たまっていた涙が零れおちる。
その一筋をきっかけにしたように涙は次から次へと流れていき止まる気配はない。
声もなく泣きだした侑妃を慧は愛おしそうにぎゅっと抱きしめて


「ごめんね、侑妃。ごめん。でもね、侑妃、これだけはわかって。俺たちはみんなお前のことが大事なんだ。大切なんだよ。
侑妃。侑妃は、守代が嫌い?信じられない?俺たちは、お前の家族じゃない?」
「っちが、違うよ!嫌い、になんかっ‥ならない!私の家族は慧さんたちだもん…っ!ごめ、ごめんなさ‥ッ…うわあぁあん‥!」
「侑妃まであいつらのところに行ってしまうんじゃないかって、心配した…」


いつも微笑みを浮かべて余裕の表情を浮かべている慧。
弱いところなんて一切見せないその彼が眼の下に隈を作り辛そうに顔をゆがめていた。
忘れていた。この人たちは自分を家族として受け入れてくれて、決して自分を裏切ったりしない人たちだったこと。
いつも自分を心配してくれて、守ってくれていたこと。
そんな大切なこと、どうして今まで忘れていたのだろう。


「そのときからかな。前に進もうとし始めたのは」


人が怖いのも、男の人が怖いのも、相変わらずだったけれど。
それでもあのままの状態でいたくなかったから、前に進まなければと思っていたから。
前に進むことで慧たちに安心してもらいたかった。


「それで?なんで男っぽくなったわけ?」


晴爾が出されたお茶を飲みながらその疑問を口にした。
双子姉妹も同じことを思っていたのか晴爾の問いに頷きながら侑妃を見つめる。
「これは、きりえさんのせい」とまたも侑妃が苦笑を浮かべた。


「どうしてそこできりえさんが出てくるの?」
「きりえさんは、実はあのあと家庭教師として来てもらってたんだ。きりえさんはわたしが学校に行けない理由も知ってたから、
『恐怖の対象を受け入れるにはまず自分がそれになってみればいいのよ!』とかなんとか言いだして、ね。そのあとは各自想像に任せるけど‥」


あの時は彼女の言葉に何の疑念も持たず納得してしまったけれど、今はきりえがただ単に自分を男装させたかっただけだと確信している。そんな侑妃の考えを見透かしたように華夜が「確かに、侑妃ちゃん顔立ちが中性的だから男装させたくなる気持ちわかるな〜」とのんびり言った。
その言葉を聞いて柚夜も同意するように頷く。侑妃がひきつった笑みを浮かべているのを見た晴爾はおかしそうに笑った。
和やかな空気が流れたとき、柚夜がぽつりと侑妃に訊ねた。


「椿さんとは、今も交流があるの?」


侑妃は静かに首を横に振る。過去を思い出すようにして細められた瞳にはかすかな後悔の色。


「椿とは…、あの時から会ってない」


あの事件以来学校に行けなくなった。椿はそんな自分に会いに毎日足を運んで来てくれたのに。
顔を合わすことはなかった。否、合わす顔がなかった。椿すら、信じられなくなっていたのだ、あの時の自分は。
あの時わたしを探して走り回ってくれたのは、助けてくれたのは、椿だったのに。
彼女さえも信じられなくなった自分が、彼女に会えるわけがなかった。

毎日会いに来てくれていた椿はそのうちに来なくなった。
彼女が家まで足を運んでくれた最後の日、椿は1通の手紙を残して行った。


“侑妃があたしのことどう思ってようが、あたしはずっと侑妃のこと友達だと思ってるから。”


彼女の癖のある右肩上がりの字で、たった一言。
椿を裏切ってしまった愚かな自分が酷く憎かった。
どうして椿を信じることができなかったのか、悔しくて情けなくて、ひとり泣いた。


「会ってない」と言ったきり俯いて黙ってしまった侑妃に華夜も柚夜も声をかけることができない。
その時晴爾が動いた。
顔を伏せたままの侑妃に近づき

―バシンッ

「ぁたっ」
「なぁに辛気臭い顔してんの、お前。背筋伸ばして、顔上げろ。
昔を悔んだってどうにもなんねえだろ。大事なのは今をどうするかだ。お前は“今”、どうしたいわけ?」


普段の彼からは想像もつかないような晴爾らしかぬ真剣な台詞。侑妃は晴爾をぽかんと見上げて、そして笑った。
漏れた笑いは止まろうとせずそのまま溢れ続ける。自分の顔を見て笑いだした侑妃に晴爾は訝しげに顔をゆがめる。
双子姉妹も同様だ。


「んだよ、人の顔見て笑いやがってー!」
「あははっ、悪い…っふふ」
「…お前は、そうやって笑ってるほうがいいよ。ってか笑ってろ。お前の辛気臭い顔なんか誰も見たくねえし」
「っ、今日のお前、いつもと違うぞ。熱でもあるんじゃないのか?」


立ち上がり自分の言った事に対して恥ずかしそうにしている晴爾の額に触る。


「熱は‥ないみたいだな」
「お・ま・え・なぁ!人がせっかくいいこと言ってやったのに…!恩を仇で返された気分だ!」
「はっ、最初から恩なんか受けてないし。残念だったな」
「このヤロ‥っ」

「――ありがとう、晴爾」


今日一番の笑顔。それを突然向けられた本人は戸惑いを隠せぬ様子で小さく「おう」と頷いた。
柚夜と華夜も侑妃の笑顔に嬉しそうにする。
憑き物が落ちたように表情をすっきりとさせた侑妃はソファに深く凭れて笑顔を浮かべたまま3人を見た。


「ほんとうに‥ありがとう、3人とも」

「気にすんな。お前が元気ないと調子狂うだけだし」
「侑妃ちゃん、大好きだよ〜」
「というか國村、あそこで侑妃を叩いたのはいただけないわ‥!」


いつものペース。いつもの雰囲気。けれどいつもと違うのは、侑妃の見た目とその纏う空気。
やっと話すことができた自分の秘密。心の重荷が少しだけなくなって、侑妃の表情もいつもより柔らかくなっていた。


「柚夜の言うとおりだよ、このわたしを叩くなんて晴爾のくせに。しかも偉そうに説教まで!」
「本当に、晴爾くんのくせに僕の侑妃を叩くなんて、いい度胸してるね?」

「は?」「え?」「…」

三者三様の反応。突然の乱入者にその場にいた全員がついていけていなかった。





*





祈ったことがある。誰か侑妃ちゃんを助けて、と。
本当は脆くて傷つきやすい侑妃ちゃんの心を支えてくれる人がはやく現われてくれるようにと。
もしかしたら、この人なら、侑妃ちゃんを本当の意味で助けてくれるかもしれない。
華夜は何処からともなく現れて侑妃を抱きしめた男をじっと見つめた。
柚夜は突如として現れたその男をぽかんと見つめ、晴爾はなぜか顔色を青くさせている。
侑妃に至っては何が起きたのか理解できていないようだ。


「あれ、侑妃。また泣いたの?」


涙の後の残る頬にそっと指を滑らす。そこで侑妃もやっと事態を飲み込めたらしい。
先ほどまで穏やかに笑っていた彼女はいったいどこへ行ったのやら。
顔を瞬時に赤くさせた彼女は眉を吊り上げ男の腕から逃げようと暴れ始める。


「な、りょっ燎‥?!なんであんたがっ、というか早く離れてよ!」
「やだ。絶対離さない」
「やだって…あんたは子供か!」
「侑妃の傍にいられるなら子供でいいよ」


ニコッと彼得意の微笑みに侑妃は何も言えなくなり、ついでに抵抗する気も失せた。
だがはっと正気に戻り恐る恐る正面のソファに座っている3人のほうに顔を向けると‥
双子姉妹は「誰だ、あの男。早く侑妃(ちゃん)から離れろ」と言わんばかりに燎を睨み、晴爾はと言えば。


「晴爾くん?どこに行くの?」
「えっ!?い、いや、どこにも行きませんよ?!はは、やだなー、燎さんったら。そんな顔で睨まないで下さいよ」
「何言ってるんだよ、晴爾くん。僕は睨んでなんかないだろ?」


絶対零度の微笑み。逆らえばどうなるかわからない。燎の有無を言わせぬ笑顔に晴爾も慌てて頷いた。
見るからに落ち込んでソファに再び腰かけると、晴爾は自分に向けられる視線に気が付く。
双子姉妹と侑妃が何かを聞きたそうにこちらを見つめていた。
そんな彼らの無言の問いに晴爾はへらりと笑い返すが、侑妃と柚夜からは眉を潜められてしまった。
誤魔化し、失敗。


「はじめまして、星野柚夜さん、華夜さん。自己紹介が遅れたけど、僕は一之宮燎、侑妃の婚約者です」


猫かぶり燎の十八番・爽やか微笑、再び。
が、侑妃以外には見破られたことがないというその猫は彼の予想に反してあっさりと双子姉妹に見破られてしまうこととなる。


「侑妃ちゃん」
「なに、この胡散臭い笑顔は?」


思わず苦笑してしまった。





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