夢か現か



「…………遅い」

咲子先輩から発せられる恐ろしいほどの怒りオーラに、あたし――橘和奈は危うく食ていたパスタを喉に詰まらせかけた。
慌てて水を流し込み、チラリと目を向けた先には切れ長の瞳を吊り上げている先輩と手つかずのままのパスタ。
数分前には美味しそうな蒸気が立ち上っていたのにもはやそれは見えず、すっかり冷めてしまっている。
あ〜あ。美味しいうちに食べないなんて勿体ないなあ。……なんて、思わないわけでもないのだけれど、あたしは先輩がそうする理由を知っている。
咲子先輩が好物のパスタを目の前にして手をつけずにいる理由、それは。

「まったく…ひなたの馬鹿は何やってんのよ。すぐ行くってメールがきたきり何分経ってると思ってるのかしら」

そう、先輩はひなた先輩がやってくるのを待っている。
普段の咲子先輩であれば美味しい湯気が上がっているうちにパスタに手を着けていただろう。
けれど、今日はいつもとは違うから。先輩は今朝のひなた先輩の顔色の悪さをとても心配していたから。

一向に来ないひなた先輩の文句を言ってはいるけれど何だかんだで先に食べずに待っている辺り咲子先輩の優しさが窺える。
後輩のあたしはあまりの空腹に耐えることができなくてお先に頂いちゃったけれど(すみません、ひなた先輩…!)

「ほんと、遅いですね。会社からここまで10分もかからないのに…」

パスタをフォークに絡めながら店の壁にかかったアンティーク調の時計を見上げると、ひなた先輩から最後のメールが来てからすでに15分が経とうとしていた。
いくらなんでも遅くはないだろうかとさすがに先輩のことが心配になってきて自然と眉が寄った。お昼休みの時間もあるというのに、どうしたんだろう。
ひなた先輩は時間にルーズな方ではないから余計に不安が募る。

「…なにかあったんでしょうかね?」
「……そうね」

咲子先輩も同じことを考えていたらしくその綺麗な顔を不安に歪めた。
その時、

「!ひなたからだわ‥」

テーブルの上に置いてあった咲子先輩の携帯がブーブーと震えた。
先輩が素早く携帯を弄るのを視界の端で見ながらあたしはパスタを口に入れる。

否。入れようとした。

「っ…あンの馬鹿!」

ガタンッと音を立てて先輩が立ち上がる。
その顔にはいつもの咲子先輩らしかぬ焦りが浮かんでいて、滅多に見られないその表情にあたしはつい口を開けたまま呆けてしまった。
…って呆けてる場合じゃない!

「えっ先輩!?どうしたんですか…ってかどこ行くんですか?!」
「ごめん、和奈。悪いけど私、ひなたのところにいかなきゃ。お金は置いとくから、じゃあ後でね」
「ええ!!先輩―っ」

待ってください!そう言う暇もなく。
先輩はその長い脚を有効活用してさっさと店を出て行ってしまった。

一人残ったあたしはどうすればいいんですかぁ………。






*






咲子に無事にメールが送信されたことを確認して私は無意識のうちにため息をついた。
心配させただろうか。彼女はそのクールな顔立ちと言動から誤解されやすいが、本当はとても優しい人だから。
携帯を閉じ、視線をテーブルの向こう側へ向ける。
そこには今朝の憂鬱な夢の、張本人。
つきり、と頭が痛んだ。

「……」
「…ひさしぶり、だな」
「…本当にね」
「4年ぶりか」

「……」
「……」

何を話せばいいのかわからなくて自然と口が重くなる。
けれどそれも4年前の別れを思えば仕方がないのかもしれない。

なぜなら、別れた原因というのが目の前のこいつにあったのだから。

「…いったい何なの?暇じゃないのよ、私」
「悪い‥」

きつい目で見やれば秦はバツが悪そうに私から視線を逸らす。
いったい何なのよ。話があるならさっさとしてほしい。心底そう思った。

これ以上こいつといたら、抑え込んできた蓋が外れてしまいそうで。

「…ひなた」
「なに、」

見上げた先にあった真剣な瞳に息が止まるかと思った。

「――悪かった」

頭を下げて謝る秦を私は黙って見つめる。
今さら何を言える?
私たちの関係は4年前に終わりを告げたのだ。
それなのに口が勝手に動いていた。

「秦はさ、私に謝ってどうしたいの?」
「……」
「あの頃は秦も私も忙しかったし、お互いの気持ちがバラバラだった。ああなったのは当然だと思う」
「っけど、」

秦が口を挟もうとするのを目だけで制す。
もう何も喋らないでほしかった。

「秦が浮気をしていてもしていなくても、きっと私たちはもうダメだった。お互いの気持ちがもうお互いに向いていなかったんだよ」

だからあの子と付き合ったんでしょう?
私を好きでなくなったから、彼女と身体を重ねたんでしょう?

あの頃。
4年前のあのころ。
入社したてだった私は慣れない仕事に疲れていたし、秦ともうまくいっていなくて、肉体的にも精神的にも疲れ切っていた。
そんな時に秦が学生時代の友人と浮気していることを知って、私はすべてを放り投げたのだ。

『あの子が好きならあの子と付き合えばいいよ。邪魔な私は消えてあげるから、別れよう?』

―あの時。
秦は私の言葉に頷いた。
お互い、同意のもとで別れたんだ。
だから、もうそれでいいじゃないか。

今さら謝られても、もうあの頃には戻れないんだから。

「…話はそれだけ?人を待たせてるから、行かなきゃ」

俯く秦に早口でそう言って席を立つ。
早く。一刻も早く、この場から逃げてしまいたかった。
これ以上秦といるともっと彼を責め立ててしまいそうだったから。

‥否、ちがう。
本当は嫌でも思い知らされてしまうからだ。

まだ私が彼を好きだということを。

「ひなた!」

だから、
お願いだから、これ以上何もいわないで。

「っ、まだ何かあるの?」

あなたのことが好きだと叫ぶ心が暴れだしてしまう前に、

「俺…今でもひなたのことが」

この場から消えてしまいたかった‥――。

「好きなんだ」

そう言った秦の姿が今朝の夢とだぶって見えた。





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